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2007年5月 1日 (火)

横浜一人旅 〜埠頭ふらふら編〜

横浜ベイブリッジの下の一般道、
通ることが出来なきゃ戻るしかないですよね。

で今度はR1からR15へ。
途中の右折は周囲に気をつけながら。

横浜からすぐの瑞穂埠頭に始めて
Dscn1837足を踏み入れようかと思ったところが、
なんとここは米軍施設だった。
知らなかった。
横浜の目と鼻の先に米軍施設があるとは。
そんな立派な橋梁の脇にも鉄道の跡。
Dscn1840 この瑞穂埠頭は大正14年着工、
昭和20年に完成した埠頭とのことなので
完成してすぐ米軍に徴収されたのでしょうか。
この鉄路を走ったのは米軍の
補給物資ということか。
と由来を検索していたら、
この辺の貨物線路を紹介するページ発見。
おそるべし、そしてすばらしいテツ!。

さすがに密入国は出来ませんので、
そのままR15に戻り大黒埠頭方面へ。
JR新子安駅前のループを駆け上がり、
産業道路へ合流して首都高をまたぎ守屋町へ。

すぐ目に飛び込んでくるのは、
日本ビクターの工場にある緑青に包まれたニッパーくん。
横浜市の歴史的建造物にも指定されている。
Dscn1848 昭和5年に作られたとのことだが、
その頃この工場で何が作られていたんだろう。
調べてみると日本ビクターそのものが
昭和2年設立なので初期の音響機器から
戦後のテレビに至るまでを作ってきたんでしょうね。きっと。

ここからちょっと脇に入ると、
Dscn1844 JR貨物の新興駅がありました。
引き込み線の踏切は二度と閉じることが無い。
役目を終えた鉄道の跡は静かに
緑を育んでいました。
なんか書いていてラピタを思い出しましたね。

その後大黒埠頭に向けて走り続けます。
Dscn1851 恵比須町から宝町。
戦前から戦後の日本の工業を支え
つないできた線路跡と共に。
背景は日産横浜工場で、
映っている建物も歴史的建造物に指定されている
今はゲストホールとして使われているもの。

Dscn1853 運河を越える鉄路の跡には
軌道を外された橋桁が佇みます。
今の主役はもう歩道の反対側の産業道路。
バイクは道路に降り、少なくとも
自分を時間(ダイヤ)の制約から解放してくれた。
大量生産のモノも鉄道からトラック輸送へと時間から解放され、
人々は本当に幸せになったのだろうか。

Dscn1855 横浜ベイブリッジ下の
大黒埠頭の突端の公園から
みなとみらいを望む。
日差しが傾きかけた東京湾、
風はまだやはり春の冷たさを
隠しながら肌をなでる。

ここから戻るのは...、また同じ道を戻るしか無い!

Dscn1852 Dscn1867 この辺の橋の欄干。
産業道路脇。
にも関わらず、
なぜかちょっとおしゃれ。
戦後復興を支えた
二次産業の華やかさの名残?

Dscn1860 戻る途中の新日本石油前のスタンド。
すぐ裏が港になっていて、
おそらく港の船への給油するための
補給船も数隻持っているみたいな感じ。

Dscn1866 Dscn1863 Dscn1864





新子安に戻る前に恵比須町の
昭和電工側側線の方をたどってみる。
昔は貨車を乗り入れていたであろうところは
舗装路が敷かれトラックに。
草蒸す鉄路の車止めの先には政府のサイロが。

帰り道に昭和電工の策の中に
「アルミニウム発祥の碑」(?)がありましたが、
門の近くに「写真撮影禁止」の看板なので写真は無し。
化学工場は設備写真と特許から
何を作ろうとしているかがわかるらしい。
旧態然とした古い工場側に看板が無かったということは
そちらは問題ないということか。

振り返ってばかりいてもしょうがないけど、
今走っている足元がどうつなげられてきたのかは知りたい。
引き返して選べる別の道はもう閉ざされているのかもしれないけど。

と日が傾きかけた横浜を後に、R15, R1, R16, R246と
家路を急ぐ車と共に帰りました。ちょっと速めに。
小さいって便利だけど、夜目立たないから
明るいうちに帰らないとね。

翌日筋肉痛が出たのは喜んでいいのか?

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コメント

こんばんは~。
温故知新のふらり旅、何故か工業地帯も
あるのに風情がありますね。
大きなバイクで素早く過ぎ去るのではなくて
原付でノンビリって言うのも素敵ですよぉ。

実はオイラったら歴史好きで・・・
昔の江戸時代の都内の地図とか見ながら
ニヤニヤしてたりすることも(笑
あ、そう言えば新橋~横浜間の初の鉄道の
線路が今の汐留にあった筈なのですが
どうなっちゃったんだろう?

>なみぞぅ
こんばんは。やぶいちさん。
>昔の江戸時代の都内の地図とか見ながら
>ニヤニヤしてたりすることも(笑
う〜。その気持ちすっごくよくわかりますぅ(笑
うちの近くも八王子街道と鎌倉街道、大山道と
昔の街道が走っていた界隈なので
ついたどりたくなります。

今回のこの記事を書く上で、確認のために
Googleの衛星写真で鉄道の状況確認をしてみましたら
面白いように廃線跡が見えるんですね。
始めての鉄道は...日テレ下?

投稿: やぶいち | 2007年5月 1日 (火) 23時08分

>今走っている足元がどうつなげられてきたのかは知りたい
 含蓄のある言葉をありがとうございます。メディアのお祭り騒ぎにノセられて"勘違い"なレトロ族が増えています。それで、一時の小奇麗なロマンに浸るのもいいのでしょうが、短絡的に思えて仕方ありません。
 ほったらかしの場所に、沢山の歴史や思い出が眠っている事実を探査できるのは"単コロ"のいいところだと思います。
 "暮らしの手帳"パクっただけのコンテンツなんて(笑)。がんばれ地方観光課。

>なみぞぅ
こんばんは、setosan。コメントありがとうございます。
生活の尺度が全て経済とか合理性で測られ、
メディアは一つの尺度をいかにもそれが全ての様に報道。
多様性をもっと楽しんで、地方が活性化してくれないと、
日本の将来は暗いですよね。

日なたも日陰も含めて歴史であり、事実だと思います。
日なただけの様に飾るのはディズニーランドだけで十分。
単車の機動力と自立性を活かして、
これからもいろいろ見て行きたいです。

投稿: setosan | 2007年5月 2日 (水) 06時43分

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